くやちい~!のはなし
ふと、最近悔しい思いをしていない、と思ったので書いている。
加えて恥もかいていない。「そこそこにうまく」やれてしまっている。
悔しがる対象を内的対象(自分の理想形みたいな?)にしているからなのか、
外的対象も持たずらのらりくらりしているからなのか、それはわかんない。
外的対象って、ロールモデルとかライバルとかっていうんでしょうか?
内的対象であるから悔しい思いをしていないのであれば、像のdeliminacionが自分の中で納得・実行されていないということだから、ちょっといただけない。
外的対象を持たないから悔しい思いをしていないのであれば、それは私の人間関係の力不足というやつであろうか?、、、ちょっといやらしい書き方ねぇ。
周りにいないなら出会いに行けばいいと思う。それでも行かないということは、某名前の長いプログラムの保護下にいるのが大好きなのだからだということなんだろう。
You、メキシコに来ることが手段ではなく目的化してしまっているようなきらいはありません?
私、いまめっちゃするの~!
ずたずたに自分の知的安全地帯を荒らされてしまえばいいのにと自分に思っている。
焼き畑農法学派の真髄をみせてやれー。