52Hz

私の文章に論理性を求める気でしょうか

一本のすーっとしたやつ

怒りは物事に集中したい時すごく役に立つ。その対価として、周りの意見を聞こうとしなくなる。「邪魔だなあ」と思う。「あなたの発言わたしの人生にインパクトある?」「年取ってるだけで発言権が生まれるとでも思った?」などなど、他人の意見を聞く必要がない理由をあれやこれや当てつけのように考える。

今、怒る対象がないから色んなことが見える。都合の悪いことも受け入れられる。多分。聞いていて不愉快になりかねないことにも聞く姿勢を携えることができる。うーんこれは嘘。

怒っていないから怒っている人がわかる。怒っている理由も、その人の視野が狭くなっている理由もわかる。しかし叙情的に訴えかけられるあまりに論理性がかけてるので傾聴しようとは思わない。敵認定されてジャッジングゲームの渦に巻き込まれるのも面倒くさい。だから、離れていよう、と思う。

怒っている人は、他人に自分の考えを理解してもらおうと必死だ。そこにネゴシエーションはない。「負け」そうになったら、勝利の定義を変えるのだ。なんて必死なんだろうか。乾いたアクリル絵の具思考だ。そのエネルギーの波は達成感を浅瀬に運んでくれるのだろうか。

「今は」水彩絵の具思考のわたし、「なるほどやっぱりうわべだけの人間関係だったのだな、比較されるためだけに構築された関係だったのだ」と感じていたもやもやが腑に落ちた。

所属や経験や出身国/地でマウントをとられても、人生の評価軸の多様性を理解していない時点で、あなたの「負け」は決まっているのです、なんちゃって。

いやあやだなあ、ジョークですよお、ハート。